古代の家
はじまりの住居は縄文時代の竪穴式住居。地面に円形あるいは方形の穴を掘り、内部に柱を立て、屋根の骨組みを設えた上に、葦や茅など植物の茎を葺いたものです。内部には炉が設けられ、煮炊きをし風雨を避けて眠る場所としての原型性があります。弥生時代になると、地面から離れた床を持ち、浸水やネズミの害を防ぐ高床式住居が作られはじめます。
「起きて半畳、寝て一畳」と日本人は言います。家に必要な最小限の空間を言いますが、
この言葉には贅沢を抑制する独特の住宅観が潜んでいます。
一方、日本では家の入り口で靴を脱ぎます。つまり外部とは異なる清浄さに身体を置く習慣が、
日本人の暮らし方や立ち居振る舞いの基底をなしてきました。
また、センシング技術が進んだ現在、環境界面と身体が直接触れ合う状況は
身体と家の新たな対話を生み出しはじめています。
さらに別の側面において、日本では富豪や資産家でなくても、
建築家に自邸の設計を依頼する習慣があり、これが住宅を進化させ
建築的才能が育つ温床であるとも言われています。
古代から現代まで「家の変遷」は、日本文化の来歴と、未来への可能性への指標なのです。
古代の家
はじまりの住居は縄文時代の竪穴式住居。地面に円形あるいは方形の穴を掘り、内部に柱を立て、屋根の骨組みを設えた上に、葦や茅など植物の茎を葺いたものです。内部には炉が設けられ、煮炊きをし風雨を避けて眠る場所としての原型性があります。弥生時代になると、地面から離れた床を持ち、浸水やネズミの害を防ぐ高床式住居が作られはじめます。
寝殿造・書院造
平安時代、貴族の館として、寝殿を中心に廊下を介して部屋が繋がり、南に池を配する寝殿造りが生まれました。部屋は四角い箱で、屏風や御簾など移動式家具で仕切ります。室町時代になると武士の台頭とともに接客空間を核とする住居が主流になります。襖や障子で部屋を区画し、畳を敷き詰める和室の源流。高位者を荘厳する障屏画も発達しました。
数寄屋・茶室
15世紀の中葉以降、大工技術や美意識の進化によって、好みの造作や空間の洗練を志向する住居空間が生まれてきます。数寄とは風流を嗜むことであり、趣味や嗜好を色濃く投影させた住居が数奇屋です。また、絢爛豪華の対極にある詫びた風情に美を求める茶の湯の勃興を背景に、和風ミニマリズムとも言うべき茶室が作られはじめました。
民家
室町時代まで庶民の家は竪穴式住居が利用されていましたが、掘立柱を用いる建築が鎌倉時代以降に普及して進化します。類型として大きくは「農家」と「町家」の二種。農家は、農作業用に工夫され、屋内に竃が設えられた土間があり、厩も併設されます。町家は職住一体の人口密集地の家で、間口は狭く、通り庭が奥に伸び、裏に居室や蔵が配されます。
集合住宅
都市への人口集中は江戸時代に始まりますが、第二次大戦後の産業復興を機に一層の拍車がかります。国土の大半が山で平野の少ない日本では、居住を確保する目的で集合住宅が多数作られました。生活分析から生み出された平均的住居に日本の庶民は暮らしたのです。現在では既存の集合住宅を、今日的な空間へと改装する住宅再生が普及し始めています。
戸建住宅
独立した一戸建て住宅を好む傾向も日本人にはあり、同種の住宅が累々と立ち並ぶ景観もよくあります。また、資産家ではなくても、建築家に自邸の設計を依頼する習慣が日本にはあり、狭い土地ながら工夫を凝らした、ユニークな住宅も少なくありません。今日の日本の建築的才能は、このような環境が温床となっているとも言われています。
現代建築
日本の多くの建築家は住宅設計で頭角を現してきました。安藤忠雄は、独学で建築を学び「住吉の長屋」という住宅で脚光を浴びました。建築史家の藤森照信は自邸「たんぽぽハウス」で建築家としての定評を得ています。これらの家に住みこなす生活意識も建築同様に創造的です。個人住宅には、日本の未来への意欲が投影されているのかもしれません。
小屋
元来、粗末な仮住まいと思われていた小屋が、近年注目を集め始めています。「起きて半畳、寝て一畳」という日本の諺は、起居に必要な空間は少ないという意味のみならず、コンパクトに暮らす清貧への矜持を感じさせるものです。極小の空間に美を見立てる感覚は日本独特ですが、自然の中にぽつりと存在する愉楽は、今日も健在なのかもしれません。