堅魚
日本人が縄文時代晩期(紀元前4000年頃)から鰹を食べていた史実が、太平洋沿いの大洞貝塚(岩手県大船渡市)から出土した大量の鰹の骨からもわかります。日本最古の歴史書『古事記』( 712年)にも「堅魚(かたうお)」が登場し、757年に施行された法令「養老令」の注釈書『令集解』によれば、当時、「煮堅魚」などが税の代わりに納められていました。この「煮堅魚」が、素干しにして魚を保存する方法として生まれた鰹の加工品の元祖であり、鰹節の起源と言われています。
「世界一堅い食べものであり、世界一薄い食べものにもなる」
と言われている鰹節。
日本で生まれた伝統的な保存食です。
鰹の肉を加熱後、乾燥させてつくられる鰹節は、
木材のような見た目そのままの非常に堅い食べ物でありながら、
削り出すと、向こう側が見え、空気や熱で揺らぐほど薄くなります。
そんな削り節から抽出された味は繊細で味わい深く、
和食の基本となる出汁はもちろん、あらゆる料理に展開でき、
日本の食文化を形づくっています。
堅魚
日本人が縄文時代晩期(紀元前4000年頃)から鰹を食べていた史実が、太平洋沿いの大洞貝塚(岩手県大船渡市)から出土した大量の鰹の骨からもわかります。日本最古の歴史書『古事記』( 712年)にも「堅魚(かたうお)」が登場し、757年に施行された法令「養老令」の注釈書『令集解』によれば、当時、「煮堅魚」などが税の代わりに納められていました。この「煮堅魚」が、素干しにして魚を保存する方法として生まれた鰹の加工品の元祖であり、鰹節の起源と言われています。
全国への伝播
鰹節は高い栄養価で重宝され、室町時代には、武士が戦の時に携帯し、飢えをしのぐ際に食べて(噛んで)いたと言われています。現在のような、燻して乾燥させ、鰹の水分を除去していく鰹節の製法(焙乾法)は、1600年代後期に紀州印南の漁師・角屋甚太郎が発明したと言われ、その製法を土佐藩が導入し、長い間、土佐の秘伝とされてきました。しかし、1700年代初頭に印南の漁師・森弥兵衛により薩摩鹿籠(現・枕崎)に、同時代後期には与一という鰹節職人によって安房と伊豆に伝承され、現在では、日本人にとって身近な食材となりました。
鰹節づくり
現代の鰹節づくりは船の上から始まります。水揚げした鰹を船上で急速冷凍し、工場に運びます。工場で、鰹の大きさや質、脂の乗り具合を見極めながら解凍した後、「生切り」「籠立て」「煮熟」「骨抜き」「焙乾」の工程を経て、荒節が完成します。荒節を「表面研磨」して「カビ付・乾燥」を繰り返し、枯節が完成します。
荒節と本枯節
鰹を煙で燻した時の香りが強く残り、しっかりした味わいの荒節。適度な酸味と深みのある出汁がとれます。荒節を表面加工したものが裸節です。裸節に2回以上カビ付け、乾燥させたものを枯節、この工程を4~5回繰り返した最高級品を本枯節と言います。枯節は甘く上品な味となり、荒節より透明でまろやかな出汁がとれます。製造にかかる時間は、荒節は20日前後、枯節は2~3ヶ月、本枯節は6ヶ月と、順に長くなります。
削り方次第
汁物から麺類、煮物など、多くの和食の下地となる日本の出汁文化を、鰹節は支えています。かつおから鰹節に加工されることでタンパク質は約3倍になります。鰹節で出汁をとるとうま味成分が増し、減塩しながらも美味しさを感じられるため、現在では、風味調味料や麺つゆ、ふりかけなど、鰹節を原料にした多くの加工食品が生まれています。削り節も削り方次第で、あらゆる料理に展開できることも鰹節の魅力です。
削り箱
今日、わたしたちが手にする鰹節の多くは、パックに入った削り節です。しかし、パック化された削り節が流通するようになるまでは、一般家庭でも削り箱を使って、鰹節を削っていました。削り箱は土佐で発明されましたが、鰹節同様、製造法は門外不出となり、明治時代まで普及しませんでした。削り箱以前は、鉛筆を削るように小箱と小刀で削っていたと言われています。現代では、かき氷機のような機械や電動削り器も誕生しています。
縁起物
「勝男武士」(=かつおぶし)と書けることから、戦国時代より鰹節は縁起物とされてきました。現代でも、結納や結婚披露宴の引き出物にも使われることがあります。例えば、「鰹夫婦節」。女節(雌節)、男節(雄節)を合わせられることから、鰹節は仲良い夫婦の象徴とされてきました。